同じ夢を見せてくれるのなら

心に移りゆくジャニーズごとをそこはかとなくかきつくれば

短編映画『DEATH DAYS』における「死んでない」の変化と、一つの疑問。

 

 

 

 

突然ですが、“違和感”という言葉にどんなイメージを抱きますか。

 

わたしにとっては、この『DEATH DAYS』において、違和感が話を見進める原動力になっていて、違和感を抱くということが、現実世界の自分(の価値観)との対比になっている、と思っています。

だから、この映画を観るということにおいては、違和感がある箇所≒興味深い箇所、ということだと思っています。

(自分が感じる)違和感≒整合性が取れない≒見進めたら納得がいくのではないか?⇒興味深い、ということです。

 

 

今回は、『DEATH DAYS』にちりばめられた違和感のうちの1つ、「死んでない」ということの変化について、少し書いてみました。

この映画を観るときのひとつの着眼点・考え方だと思って読み進めてもらえたら嬉しいです。

 

 


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「生きている」と「死んでない」の独立*1

公開目前にTwitterInstagram等に投稿された『DEATH DAYS』のポスターのキャッチコピー。

それは、【今日も死んでなくて、おめでとう。】

おめでとうと思うことが、「生きている」ではなく「死んでない」であるというのが、あまりに耳馴染みの薄い組み合わせだと、初めて触れたとき思いました。

 

 

また、もうひとつ、ポスター。

こちらは、【ぼくらは今日も、すごく生きたい。】

そして、「生きたい」にくっついているのが「すごく」であること。これは違和感というよりは、つかみどころのない表現だなと思いました。あまりに漠然としすぎている。

 

 

例えば、“今日も生きていておめでとう”であったり、“ぼくらはすごく死にたくない”であったりすると、もっとすんなりと飲み込めるはずなのに。

“今日も死んでなくておめでとう”と“ぼくらは今日もすごく生きたい”の、何とも言い難い不協和音の響きがします。

「生きている」と「死んでない」は同じ現象であるはずなのに。

そう考えると、この2つは同じではない。また、真逆でもない。

 

 

 

本編でも、この「生きている」と「死んでない」が別物であるところから始まります。

 

 

※以下、本編の話に触れるので、視聴後に読み進めてください。


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「死んでない」は「生きてない」へ

第1話で、森田剛さん演じる主人公の「俺」は、自身の20歳のデスデイを友人と過ごし、その時に漠然と語ったバンドの夢が、思い描かれることになります。このバンドの曲では、以下のフレーズが登場します。

死んでない 死んでない 死んでない やったね

っつーことは っつーことは っつーことは 生きている

 

おそらく同年代の友人たちとノリで作ったと思われるこの曲。

ここでは、「死んでない」を「生きている」に言い換えただけ、ニュアンスの違いとか深い意味とかの裏付けは無いように感じます。

しいて言うなら若さゆえ、かな。

 

 

主人公の彼は話の過程で友人や妻といった大切な人をデスデイに失っていきます。

その過程で、彼は、自らの「生きている」感覚も失っていく。

 

「生きている」感覚を失っていった彼は、どうするか。

 

死を目指そうとします。

 

死を目指そうとするも、デスデイではない日に死を目指した彼は、肉体を死なせることができません。

肉体を死なせることができなかった彼は、「死んでない」。あまりにも遠くて、霧のようにつかみどころがなく視界が不透明で、生気が無い。ネガティブ。

彼の肉体は「死んでない」し、彼は「生きてない」ようにも見える。

 

そして、「生きてない」と「死んでいる」が、互いの境界線を溶かすかのように、限りなく近づいていきます。

 

 

 

そして、「死んでない」は「生きている」に

きたる12月31日、彼のデスデイ。

彼はこの日このとき、前述の「死んでない」を、パワフルで血の通ったポジティブなものに変化させます。

 

 

 

それを経て、エンドロールで流れる曲の響きが、どことなく変わって聞こえるようになります。

死んでない 死んでない 死んでない やったね

っつーことは っつーことは っつーことは 生きている

 

第1話と同じ曲。

第1話と同じフレーズなのに。

「死んでない」と「生きている」を繋ぐ確固たる裏付けが、現れてきます。

 

 

 

 

では、最後に疑問の話を


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主人公の彼がデスデイに意識を手放そうとしたとき、幼少時代の彼が語りかけます。

「そうだよ 生きることに意味なんてないよ初めから」

「だからただ生きろ」

「子供の頃はただ生きてたじゃん」

 

「生きている」感覚を失った彼がそれを取り戻すきっかけは、幼少時代の自分の声から始まります。

 

生きることの意味を見失ってしまった彼。

そして、何回も何回も「生きている」感覚を手放そうとまでした彼。

デスデイが来て、ようやく手放せる…という日の、彼。

もはや「生きてない」彼。

 

そこに現れた幼少時代の自分にたった一言“ただ生きろ”と言われて彼は手放すのをやめ、「死んでない」を強く握りしめ、「生きている」感覚を急速に取り戻します。

 

 

ここで、わたしは疑問を抱きます。

「生きてない」彼は「死んでない」を強く握りしめることで「生きている」を取り戻したが、どこからそんな力が湧いてきたというのか。

あのタイミングの“ただ生きろ”で彼は結果的に変わることができたけれど、それって、彼が「生きている」を手放そうとする段階においてほぼ必ず出会う解のひとつなのでは?と思います。

むしろ何回も出会うんじゃないか?

でも、それを選ばなかったからこそ、「生きている」を手放すというところに至るんではないのでしょうか。

そう考えたときに、“ただ生きろ”がどうしてあれほど強く刺さったのだろう。

あの“ただ生きろ”は、幼少時代の彼と現代の彼の間でしか通じ合えない何かがあるのだろうか。

 

 

 

【追記】

森田:『DEATH DAYS』でも、子ども時代の自分が出てきて「生きることに意味なんてないよ、はじめから。だから、ただ生きろよ!」と、主人公に訴えかけてくるシーンがあるんですけど、本当にそんなシンプルなことでいいんだと思います。

<森田剛 × 長久允 対談>「今日も死んでなくておめでとう」"死ななかった日"を祝う世界を描いた映画『DEATH DAYS』 | NEUT Magazine

 

これが先述の疑問に対するアンサーになっているのでは?というのも、検討しました。

わたしが問うたのは、これとは少し違うことなんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしは、あの話の世界に存在するたくさんの違和感を追い求めて、今日も『DEATH DAYS』を観ます。

そして、いつか「生きている」感覚を手放しそうになってしまったとしても、「死んでない」を強く掴めるようになるために。

 


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*1:ここで言う独立は、ベクトルの一次独立に近いイメージ。互いが互いで置き換えられることがなく、さらに他者の強い縛りを受けない、みたいなこと。